王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」
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「タイチ?」
六畳一間のアパートの、隣に寝ていたはずの男がいない。
「ダーリーン?」
もう少し大きい声で呼んでみても、答えはない。トイレに入っている音もしない。充電コードに繫がっているスマホを手繰り寄せてLINEを打つ。しばらくじっと画面を見つめるが、既読はつかない。そのうち尿意を感じてきたので、よっこらしょと立ち上がってゆっくりゆっくりトイレに向かう。玄関に投げ出されている靴のうち、VANSの青いスニーカーが無いのに気付いた。ふーっと息を吐く。なんだか嫌な予感がする。
パジャマのズボンをよいしょと引きずり下ろし、便座に腰掛ける。せり出したお腹は、もうはっきりと以前とは形を変えている。ヨーコの自慢の腹筋は今や跡形もなく消え去り、皮膚はまるまると伸びている。最近便秘ぎみだ。昔母がやっていたようにお腹を時計回りに
時間をかけて用を足してまたのろのろと部屋に戻りスマホを見ても、まだ、既読はついていなかった。通話をかけてみる。出ない。一回キャンセルして、もう一度。出ない。もう一度。出ない。嫌な予感がする。
敷きっぱなしの布団の上であぐらをかきながら、カーテンが半開きになっている窓を見つめた。今日は天気がいい。洗濯しなきゃなあ、と思う。もう時間はお昼に近かった。胸焼けみたいな、何かが喉の奥までせりあがってきているような嫌な感じがここのところずっとしているけれど、お腹はすいていた。何か食べたい。
またよっこいしょと立ち上がり冷凍庫を開ける。お鍋で煮るだけの冷凍けんちんうどんがあったはず。
「あっ」
目を見開いた。冷凍庫の真ん中にいつもどーんと置いてあった「しろくま」が無い。タイチが「特別なときのために取って置いてる、絶対に触るな」と言っていたアイスだ。スーパーやコンビニで売っている安いやつではなく、わざわざ物産展で買ってきた「本物のしろくま」らしい。
慌ててゴミ箱を開けると、空のカップが捨ててあった。
なんか、特別なこと、あった?
料理する気がうせて食パンの袋と牛乳だけ取って部屋に戻る。よくよく見回すと、間違い探しのように部屋のあちこちから物が消えている。スカジャン、ノートパソコン、トロフィーと賞状の額、一番大きいボストンバッグ。
食パンをかじり、牛乳で飲み下しながら、眉間に
答えはもう、すぐ目の前に現れているけれど、ヨーコはそれを頑張って無視して食パンを齧りながら自問自答を続けた。もしかして、何かのサプライズの準備かな。そういうのは嫌いだって前にテレビ見ながら言ってたけど、気が変わったのかも。そうじゃなかったら、やっと不動産屋さんに新しい部屋を探しに行ってくれたのかな。六畳に三人はさすがに狭いもんね。あとは仕事の面接かな。もっと給料いい仕事に転職したいって言ってたし。アピールのためにトロフィーと賞状を持ってったのかもしれない。中学生のときの、卓球と書道大会の記録。タイチの一番の自慢。
部屋の隅に二人で買った名付け辞典が放り出されている。
ヨーコの頭の中にぽんぽんとポップコーンみたいに「やばい」という気持ちがたくさん湧いて出てくる。やばいんじゃないのかな、これ。考えたくないけど、まさかそんなことが起こるなんて思いたくないけど、絶対にイヤだけど……。
ぼーっと窓を見つめたまま、ひたすら食パンと牛乳を食べる。胸焼けがひどくなってきたけれど、空腹がおさまらない。早くスマホが鳴ってほしい。LINEでも通話でも、タイチ本人にこの考えが間違ってること証明してほしい。ドアから帰ってきて、また明日から同じように暮らしてほしい。だって今までずっと、二人でベビィが出てくるのを楽しみにしてたんじゃないの。名前考えたり、大きくなったら三人でどこに行こうとか、ずっとそんな話をしてたじゃない。顔はタイチ似だったらいいな、身体はあたしに似て丈夫だといいな、どんなスポーツやらせようかな、タイチみたいに字のきれいな子になるといいな、でも、元気に生まれてくればそれでいいや。正直産むの怖いけど、あたし原付で事故ったときも泣かなかったし、打たれ強いし、きっと大丈夫。元気な家族になろう。お金はないけど元気はあるから、東京でいちばん元気な家族になろう。そうしよう。そうしようって、言ってたじゃん。
六枚切りの食パンを四枚と牛乳を一本飲み干したら、急にめまいがするほどの眠気が襲ってきて布団の上にゆっくり横になる。最近は、
はっと目を開けると、目の前でスマホが光って震えていた。タイチからだ。
「タイチ!」
急いで応答をタップすると、なんだかざわざわした音が聞こえてきた。
「タイチ?」
テレビの音と、食器の音と、よく聞こえないけど知らないおじさんが何か喋ってる声がする。そしてぷつっと通話は切れた。
「おい!」
叫んで、こっちから掛け直しても応答なし。繰り返してもダメ。そうしていると、ポヨッとLINEが入ってきた。
『さて、まず、確認事項その1。俺がずっと苦しんでたのにヨーコは気付いてたのかなって疑問があります。俺も泣き言とか言わないようにしてたけど、すぐそばにいたんだから俺の変化には気付くはずだよね? 俺はヨーコの俺に対するいたわりとか、優しさとか、そういう言葉を待っていたけど、そういう気遣いは見られませんでした。そこにまずがっかりしてます。ちょっと甘やかしすぎたのかな。俺の部屋に住まわせてる以上、もっとしっかりヨーコを教育すればよかったと後悔しています。このままだと気遣いのできない女としてヨーコは凄く苦労すると思うので。とにかく、勝手に妊娠して勝手にそのまま物事をすすめていくヨーコのワガママな態度に失望しました。このままだとお互いに駄目になると思う。少し距離を置きましょう(涙を流している絵文字)』
「はあ……??」
すぐには何が書いてあるのか理解できなくて、二度三度繰り返し読んでいるうちに、またポヨッと新しいメッセージが送られてきた。
『確認事項その2。アパートは今月いっぱいで解約しました。今はヨーコにも自立が必要な時だと思う。たとえ女子でも、将来のことをちゃんと考えてほしい。今週中に俺の後輩が荷物を片付けに行くので、ヨーコもちゃんと自分の物は自分で整理しておくように。では。(手を振っている絵文字)』
「はあ~~~~~???????」
朝方がたがたと
とにかく、この部屋も使えなくなってしまったということ。
廊下は薄暗く、ところどころ床板が湿気でたわんで波打っている。それをスリッパを履いた足で避けながら歩き、ユキ江は
部屋の真中には美しい猫脚のソファと八角形のテーブルがある。その上にバスケットを置くと、ふわっと埃が舞い上がった。気にせず中からティーカップとソーサーとティーポットを取り出す。全て黄色い薔薇の絵が描かれた陶磁器で、一番のお気に入り。
ソーサーの上にカップを置き、ポットの中身を注ぐ。それは透明な
たまには買い物に出掛けてみようかしら。白湯をひとくち飲む。こんなにお天気がいいんですもの。たまには日に当たらないと。
ふと顔を上げると、壁の一角、
時代が変わったんだわ。でも、変えちゃいけないこともあるんじゃないかしら。
一杯の白湯を飲み終わると、真っ白いはずのカップの底に砂粒のような濡れた埃が張り付いていた。ユキ江はまぶたをぱちぱちとさせて、それを見なかったことにし、カップを仕舞ってまた元の廊下をゆっくり引き返していく。
まずは紅茶を買いましょ。それから、お昼は久しぶりにおうどんなんか食べてみようかしら。
寝室に入り、鏡台に掛けてあるレースを上げ、化粧を始める。引き出しを開けると埃と、かすかに黴くささの混じった
玄関から外に出ると、
まあ、いつの間にここもこんなに汚らしくなってしまっていたのかしら。庭師を呼ばないと。でもどこにどうやって
溜息を
そうしてやっとの思いで門を開けると、突然、目の前に思いもよらないものが現れた。
「……あなた、どなた?」
ユキ江がそう言うと、見ず知らずの薄汚れた若い女が、地面にうずくまったまま、呆然とした顔をこちらに向けた。
▶#2-1へつづく
◎第 1 回全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます!
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February 19, 2020 at 05:00AM
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