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落選、辞職、逮捕…そして誰もいなくなった「江東御三家」 2世の神輿・江東区長選買収(下) - 産経ニュース

昨年末、東京都江東区議会。ドタバタと足音がしたかと思うと、区議らの控室に怒号が響いた。

「なんで木村弥生が区長選に出るんだ!」

声の主は、当時4期目だった自民党所属の区長、山崎孝明。翌年4月の区長選に出馬することになる山崎一輝の父親だ。その後、病魔に倒れて帰らぬ人となるが、当時は5選を目指していた。自身に弓を引く元衆院議員の立候補は、許しがたいものだった。

裏にいたのは、江東区を地盤とする衆院議員の柿沢未途だ。この少し前、区長選出馬の思いを明かした孝明に対し、野党から自民党に転じて間もない柿沢は「本当に出るんですか?」と言い放ち、激怒させていた。

木村の父、勉はかつて都議や衆院議員を務め、都議時代は孝明と票を奪い合った政敵だ。平成29年に弥生の妹が都議に出馬した際にも、孝明は区議らに応援禁止を厳命。区議が弥生の妹と集会を開くと、その日のうちに電話で注意した。

弥生の妹が落選した後も、「子飼い」の区議から毎月のように陳情を受け、その場で区職員に指示を飛ばす一方、木村家に近い区議とは廊下で目も合わさなかった。

孝明が手にしていた絶大な権力。それは、かつて柿沢の父、弘治が握っていたものだった。

都立の伝統校出身

明治34年(1901年)に開校した都立両国高校。江東区の隣の墨田区にあり、大正の文豪、芥川龍之介や昭和初期の小説家、堀辰雄を輩出したことでも知られるこの伝統校は、柿沢弘治、木村勉、山崎孝明の出身校でもある。

3人の中で年長の弘治は、旧大蔵(財務)官僚を経て政界入り。自民党系の若手が飛び出して作った新自由クラブに入党し、昭和52年、参院選で初当選。その後は自民党に入党して衆院議員として当選を重ね、外相まで務めた。

「『親方』には、今で言えば小泉進次郎のような若さとカリスマ性があった」。弘治に長く仕えた元秘書はいう。

政治活動に没頭し、未途が小学生の時には代わりに父母会に出るよう、この秘書に頼むことも。「金を持ってこない人とは付き合わないよ」とうそぶきつつも、それでも人が自然とついてくる魅力があったという。

弘治の6年後輩に当たる勉も、弘治と同じ52年に新自由クラブに入り、都議に。2人のイニシャルを取って地元では「KKコンビ」と呼ばれたが、弘治が自民党へ入党したことで、蜜月関係は解消する。

その後、勉も国政を目指し、弘治と対決。1度は敗れたものの、2度目の挑戦となった平成15年の衆院選で弘治を破り、引退に追い込んだ。

遅れて政治の道に入ったのが、最年少の孝明だ。地元でそば店を経営し、自民党区議から都議へ。都議選で勉と票を奪い合いながら地歩を固めて19年には区長に初当選した。その2年後に勉は政界を引退、孝明だけが残った。

終わらない「戦い」

ただ、孝明の「戦い」は終わらなかった。かつてのライバルの子らが、挑むように政治の道を歩み始めたからだ。一方で、孝明の息子の一輝もまた、父親を支えるようになっていた。

弘治の息子、未途は地元の野党衆院議員。勉の娘、弥生は京都の自民党衆院議員、一輝は地元の自民党都議。別々の選挙を戦っていた「2世」たちは、弥生を未途が推し、孝明の死を契機に一輝が出馬を決めたことで、運命のように区長選へと吸い寄せられていった。

結果、一輝は落選し、当選した弥生は辞職に追い込まれ、未途は逮捕。「江東御三家」は、誰もいなくなった。

弘治も既に鬼籍に入り、「親世代」で唯一、存命している84歳の勉はつぶやく。「柿沢は、山崎をつぶして江東区を手に入れたかった。娘は、巻き込まれたんだ」

今月10日、御三家のいない区長選を経て、都庁職員出身の大久保朋果(ともか)(52)が新区長となった。キャッチフレーズは「クリーンな政治」。

弘治が初出馬したときの新自由クラブが掲げていた言葉だった。(敬称略)

この連載は久原昂也、星直人、宮野佳幸、荒船清太が担当しました。

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