人間の脳の働きは不思議なもので、まだ、すべての働きを脳のどの部分が担っているか、わかっているわけではありません。精神科医でもの忘れ外来の診療所を運営している松本一生さんは、臨床現場(診療の場)で、どういう症状がどういった認知症によって出やすいかを診たうえで、いくつかの検査と組み合わせて診断をしています。松本さんが見た事例をもとに解説します。
今回は15年ほど前に九州のある地域の「家族会」から相談を受けて会うようになったアルツハイマー型認知症の男性の話をします。
彼が診断を受けたのは私と出会う4年前でした。大学病院の外来を受診した当時、彼は中学の美術教師を辞めた直後でした。県下でも有数の進学校であったため、当時の一般的な感覚からすると「認知症になったのに教師を続けてよいものか」と彼も家族も悩んだそうです。後に私が「決断が早すぎた!」と思うほどあっさりと学校に相談することもなく、退職していました。
闘病に前向きな夫婦
彼の名前は米内山健一(よないやま けんいち:仮名)。診断時は52歳でした。根っからの熱血漢で、「私は認知症と診断されたけれど、自分の力で治す」と公言してはばかりませんでした。教師はやめても自分の専門分野である絵は描き続けるとも言っていました。
その彼を支える妻は、それまで専業主婦であったのですが、彼の退職をきっかけに医療機関の受付に勤めることにしました。二人は結婚して20年、お互い2度目の結婚で子どもはなく、これからの闘病には不安を感じましたが、それでも前向きに明るく病気と接しようとする姿が印象的な夫婦でした。家族会からの紹介で、ときどき夫婦の相談を受けることになった私も、その後、10年の付き合いの中でずいぶんとたくさんの勇気をもらったと感じています。
ある日の夕食で……
ある冬の夕食時、帰宅がいつもより遅くなった妻が急いで自宅に戻った時、彼はいつものようにキャンバスに向かって絵を描いていました。病気と向きあうには「気晴らし」が必要で、そのために彼が絵を描いていたと思う人がいるかもしれません。
いえいえ、彼がキャンバスに向かうのは、自分にできるあらゆることを駆使して、アルツハイマー型認知症を食い止め、少しでも進行しないようにするための、命を削る努力の結果でした。それゆえ、妻も「絵を描くことで認知症の症状の進行を食い止めたい」と私に言っていました。
油絵が専門の彼でしたが「いつもリビングで描けるように」と絵の具を油彩からアクリル絵の具に変えていました。アクリル絵の具は油絵の具の強烈な油のにおいが全くないため、リビングや隣接する食卓付近で描けます。書き具合に慣れるまでには時間がかかりましたが、それでも彼は努力してアクリル絵の具のタッチをマスターしました。
「どんな具合?」と気軽に声をかけて夫が描いている花瓶とコップの静物画を見た妻は息をのみました。目の前のキャンバスには取っ手が全くないマグカップと、後ろの風景が途切れたような、まるでナイフで切り取ったような静物画が描かれていました。
風景の一部が認識できない
それから半年ほどして家族会の全国集会があり、それを機に私の診療所へ検査、診察のために夫婦が訪ねてきました。その結果わかったのは、彼の脳は、見えているはずの風景を一部で認識していないのだということでした。視空間の認識ができないのです。そのことを二人に伝えました。すると彼は「私は見えていると思った部分だけを描いているのですね。それなら今の私を主張した絵が描けますね」と発言し、私は彼の前向きな発言と、そのように言い切った彼の勇気を忘れることはありません。
その後の彼は「それでも自分に何ができるか」を模索しながら認知症と向きあいました。しかし病気は進行していき、ある日曜日の午後、妻から電話がかかってきました。
「先生、ついに健ちゃんが私に『あなたは誰?』と今朝、食堂で言いました。先生が言っていたアルツハイマー型認知症の症状ですよね。とてもショックで自分一人では抱えきれず、つい、日曜なのに先生に電話してしまいました」と電話の向こうで彼女は泣いていました。
はじめまして、あなたの妻です
しかし私がこの夫婦の言葉を今でも人生の支えにしているのは、その後に妻から聞かされたひと言があるからです。「あなたは誰?」と聞かれた妻は夫に「初めまして。わたしはあなたの妻です。これからの人生を、今日が最初の日として、(顔がわからなくても)夫婦としてやっていきましょう」と言ったそうです。それに対して彼も「あなたがわからなくなった、こんな僕とでももう一度夫婦になってくれますか」と泣きながら応じたそうです。
私は妻の介護をして7年目を迎え、医者として患者さんや家族を守っているつもりですが、自分の人生にこれと同じことが起きたら対応できないでしょう。しかしこのような状況でも、彼らはその後10年、彼が亡くなるまで「夫婦として2度目の人生」を生ききりました。
「そのような状況になっても人生を捨てない人がいる」、彼らの思いを受け継ぎながら、今日も認知症の診療は続きます。
◇
次回は「一晩中、眠れない人のケア」について書きます。
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