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「次ミスしたら辞めさせられる」運転士の焦り、歯車が狂い始めた事故25分前 尼崎JR脱線、報告書で振り返る - 神戸新聞NEXT

 「変わった様子はなかった」。彼の家族や同僚はそう口をそろえた。事故前日、当日の朝についても。乗客106人が死亡し、493人が重軽傷を負った尼崎JR脱線事故で、死亡した男性運転士=当時(23)=は乗務中に何を思い、電車を暴走させたのか。25日で丸18年になるのを前に、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(事故調委)の報告書などから直前の経緯を改めて振り返る。

■〈8時9分 京橋駅、50秒の遅れ〉

 午前8時9分50秒ごろ、男性運転士は京橋駅から当時44歳の男性車掌を乗せ、7両編成の尼崎駅行き普通電車を出発させる。既に定刻より50秒ほど遅れていた。

 その2時間前の午前6時8分、森ノ宮電車区放出(はなてん)派出所で点呼した係長は、男性運転士の様子について「特に異常は感じなかった」と証言する。京橋駅からの出発遅れは、直前の松井山手駅発京橋駅行きの区間快速で、混雑による遅れが徐々に拡大したためだった。

 走り始めた普通電車はその後も各駅を45~50秒遅れで出発し、加島駅直前の左カーブに差しかかる。その時、速度超過を感知するATS(自動列車停止装置)が働き、運転室に警報音が鳴り響いた。ブレーキをかけるもATSの自動ブレーキが先に働いて減速し、ほぼ制限速度の65キロで曲線に入った。

 運転士は事故5年前の2000年4月、JR西日本に入社している。家族は「4人兄弟の中で一番明るい。新幹線の運転士になるのが夢と言っていた」と話した。友人らは「落ち込んでいるところを人に見せない」「スノーボードなど、器用に何でも無難にこなす」という印象を持っていた。

 その4年後の04年5月に京橋電車区所属の運転士になり、運転技量審査は平均点よりやや上。勤務評価では平均を大きく上回っていた。

 ただ、運転士になって直後の6~7月、片町線放出駅で停止位置を約4メートル通り過ぎ、同線下狛駅で約100メートル行き過ぎるなど、3度のオーバーランをした。これは「日勤教育」と呼ばれる懲罰的な研修の対象となった。

 脱線事故は、その後1年足らずで起きる。

■〈8時53分 宝塚駅、非常ブレーキ再三始動〉

 京橋駅から尼崎駅に着いた普通電車は8時31分ごろ、回送に切り替えて宝塚駅へ向かう。そして到着寸前の8時53分ごろ、男性運転士の歯車が狂い始めた。

 レールの分岐に近づき、速度超過を知らせるATSの警報音が運転席に鳴る。ブレーキをかけても減速しきれず、25キロオーバーの65キロで通過すると、大きく車体が揺れた。続いてATSを解除しなかったことで非常ブレーキがかかり、電車は駅手前で急停車した。

 本来は輸送指令に報告しなければならない事案だった。しかし、彼は連絡せずに解除して走り出すと、今度はATSの誤出発防止機能による非常ブレーキが作動してしまう。結局、定刻より44秒遅れて8時56分14秒、停止位置に止まった。

 回送電車は宝塚駅で折り返して尼崎行きの快速電車になるため、運転士と車掌が1両目と7両目を入れ替わる。ただ、彼はなぜか座ったまま、しばらく席を離れなかったという。何を思っていたのだろう。

 事故調委の報告書は、それまでに経験した「日勤教育」への重圧にさらされた可能性を示唆している。

 周囲の人々は取材にこうも答えていた。前年に運転ミスをした後、彼は「悔しい。もう絶対にオーバーランはしない。絶対だ」と言って、同僚の前で涙を流したという。そして指導中は乗務を外され、延々と続くリポート作成、浴びせられる罵声…。期間は13日間に及んだ。

 オーバーランや到着遅れなどのミスをした運転士らに課される日勤教育について、JR西のある幹部(当時)は「集中力不足などのミスを自己分析させ再発防止につなげるため」としつつ「(会社と対立する)特定の労組対策だった」と打ち明ける。一部の運転士は技術向上に効果のないペナルティーと受け取っていた。

 彼は研修を受けた後、親しい知人らにこんな不満をこぼしていた。「トイレへ行くにも断らねばならない」「社訓を丸写しするだけで、意味が分からない」「給料がカットされ、本当に嫌」。知人の女性にはこうも漏らしていた。

 「今度ミスをしたら、運転士を辞めさせられる」

■〈9時15分ごろ 伊丹駅、72メートルのオーバーラン〉

 9時4分ごろ、宝塚駅から同志社前駅行き快速電車を発進させる。出発は定刻より15秒ほど遅れ、中山寺駅の出発時には25秒、北伊丹駅の通過時には約34秒遅れた。その後、約122キロで突っ走り、伊丹駅が近づくもATSの「停車です、停車です」との警告を聞き逃したのか、減速せずに走り続ける。そして駅468メートル手前に約120キロで迫ると、再びATSの「停車! 停車!」という警告と警報音が同時に響き、直後にブレーキをかけた。停止位置を約72メートルも行き過ぎるオーバーラン。予備ブレーキまで使って9時15分43秒、ようやく止まった。

 男性運転士は車内電話を使って「今からバックする」と車掌に告げる。速度オーバーの約16キロで後退し、ここでも停止位置より約3メートル後ろに行き過ぎた。

 午前9時16分10秒ごろ、伊丹駅を出発する。遅れはもう約1分20秒に達していた。車掌が「次は尼崎」と放送した直後、運転士から車内電話があった。

 「まけてくれへんか」

 伊丹でオーバーランをした距離を小さく報告してほしいという「過少申告」の依頼だった。

 車掌は少し考え「だいぶと行ってるよ」(原文通り)と答えた直後、乗客が車掌室のガラス窓をたたいた。「なんでおわびの放送せーへんのや」。応対のため車掌は、運転士の依頼に返答しないまま電話を切った。

 当時のやりとりについて、車掌は事故調委の調べに「運転士は(急に電話を切られたため、自分が)『怒っている』と思ったかもしれない」と述べている。

 それでも乗客へのおわび放送を終えた車掌は、オーバーランの報告をするために輸送指令を無線で呼び出す。「えー、行き過ぎですけれども…」。その交信内容は、1両目の運転室でもスピーカーから聞こえる仕組みだった。

 「およそ『8メートル』行き過ぎ、運転士と打ち合わせのうえ後退で、1分半遅れで発車しております」

 車掌は、明らかな過少申告をした。この報告を受け、指令は続けて「8メートル行き過ぎ」と復唱する。この時、運転士の彼は双方のやりとりを聞きながら「8メートル」につじつまの合う言い訳を考えていた--事故調委はそんな可能性を指摘している。

 運転に集中できないほど、追い詰められた心理状態だったのか。

〈9時18分 脱線〉

 電車は制限速度の120キロを超え、9時18分22秒、塚口駅を1分12秒遅れて122キロで通過する。車掌との交信を終えた指令は続いて「運転士応答できますか」と呼びかける。しかし、返答はない。電車はあのカーブに約116キロで突っ込んでいた。「ガタガタ」と揺れる車体。運転士はようやくブレーキをかけ、105キロ程度まで減速したが、午前9時18分54秒、650人以上を乗せた快速電車は、1両目から脱線し、マンションへ向かっていった。

 事故調委の見立てを振り返ってみよう。

 伊丹駅に到着する際にブレーキ使用の開始が遅れたことについては、宝塚駅での非常ブレーキ作動などを気にして注意が運転からそれた可能性が考えられるとした。

 そして伊丹駅を出発後、車掌に虚偽報告を求めた車内電話を消極的な応答で切られたと思い、その後の車掌と輸送指令員との交信に特別な注意を払っていたと考えられる。さらに日勤教育を懸念して言い訳を考えたり、運転士を辞めさせられると思い呆然としたりしていた可能性もある-などと指摘した。

 そのうえで、彼が車掌と輸送指令員との交信内容をメモしようとして、ブレーキ使用が遅れた可能性も考えられるとした。使用開始の遅れは約16-22秒と推算される。

 脱線現場のカーブにはATSの速度照査が付いていなかったため、非常ブレーキはかからなかった。

   ◆   ◆

 男性運転士を巡っては、兵庫県警が08年9月、業務上過失致死傷容疑で書類送検し、神戸地検は死亡により不起訴とした。

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